初めてホタルを見た
近所の川でホタルが見られるというので行ってみた。
多摩ニュータウンは丘陵地帯を開拓して作られた住宅地だが、その谷間、谷戸には昔ながらの田畑や自然の景観が残されていたりする。東京でホタルが見られるスポットの一つだ。
平成 18 年には「上谷戸ホタルの会」が発足し、上谷戸川の清流を活かし、ホタルの育成を行っています。このホタルを多くの方に観賞していただきたく、平成 20 年度からホタル観賞の期間を設けています。
ホタルについては保全団体の活動によって 10 年前くらいから見られるようになったらしい。例年であればこの時期にイベントをやっていたようだが、去年と今年はコロナによって開催中止になっている。
それでも暗がりの中見に来る人はそこそこ居た。もしイベントをやっていたらもっと人だらけだったんだろうかと思うと良かったかも知れない。
暗いので写真に撮るのはかなり難しい。
川沿いを歩くと数匹まばらに見られるくらいだが、多いところでは 20 匹くらい集まっているところもあった。わりと動きは鈍くさいようで、漂っていたところに手のひらを差し出すと乗ってきたりした。大きさはなんとなくゴキブリくらいなのかとイメージしていたのだが、1,2cm くらいの小粒な虫だった。これらがおよそ 2 秒間隔で周囲と同期して明滅している。
ホタルというものを今回初めて見たのだが、でもそのわりにはアニメなどの作品では当たり前のように描かれるのが不思議だなと思っていた。
どうしてそこまで共有されているコンテクストなのか。蛍雪の功やら平安時代の枕草子にも歌われるが、どの時代でどのくらい普遍的な光景だったのかという感覚すら分からないままに現代を生きている。
幸子は蛍狩りと云えば、文楽座で見た朝顔日記の宇治の場面、ー人形の深雪と駒沢とが屋形船の中でささやきを交わす情景を知っているだけで、妙子が云ったように友禅の振袖などを着て、野面の夕風に裾や袂を翻しながら、団扇で彼方此方と蛍を追うところに風情があるのだと、なんとなく思い込んでいたのであったが、実際はそんなものではなく、暗い畦道や叢の中などを行くのですから、お召し物が汚れます、どうかこれにお着替えになってと云って出されたのは、今夜のために特に用意したものなのか、それともいつも貸し浴衣代わりに備えてあるのか、幸子、雪子、妙子、悦子にまで、それぞれちゃんと柄行きを見立てたモスリンの単衣であった。ほんまの蛍狩りは絵のような訳にはいかんねんな、と妙子は笑ったが、何しろ闇夜ほど良いと云うのであるから、着る物に都雅を競う面白さはなかった。
谷崎潤一郎の『細雪』に蛍狩りの描写が出てくるようだが、戦前のこの時代でも情景として知っているだけで実際は体験したことがないと語られる。
これは上流階級のキャラクター描写ゆえにだろうが、そう考えると現代アニメのお嬢様キャラのステロタイプな定番描写である「駄菓子屋でカルチャーギャップを学ぶ」というのが当時の蛍狩りに相当するのかもしれない。
夜景モードで写真を撮るとこのくらいの明るさだが、
実際はこのくらいの暗がりだった(撮るまで人が居ることに気づかなかったくらい)。なので上述の細雪の描写は確かに納得感がある。
彼女は、自分がこうして寝床の中で眼をつぶっているこの真夜中にも、あの小川のほとりではあれらの蛍が一と晩じゅう音もなく明減し、数限りもなく飛び交うているのだと思うと、云いようもない浪漫的な心地に誘い込まれるのであった。
再び細雪の描写だが、寝床で回想するというのも現代だと遠い感覚だなと思ってしまった。普段から光に溢れすぎているし、生活のほとんどは光るモニタしか見ていない。
ホタルの色は青白いはずだと皆思い込んでいたのに、スペクトルはきれいな緑色を示していました。これはどうもホタルの光を見るときは夜であり、目は暗やみに慣れていて色を色と識別する能力が低くなっており、明るさを感じる能力の方が強くなっているためでした。あとで調べてみると、暗くなると肉眼では色が消えてしまう出来事をプルキニエ現象と一般に言われているということがわかりました。
蛍の光は写真に撮ると緑色だし、作品でも緑色で描写されるが、実際肉眼で見るとまったく緑には見えず白っぽかった。これはカメラのほうが波長の捉え方が違うのかなと思ったが、人間の感覚のほうが変わるようだ。
ホタルの集団が指揮者が居なくても光り方が同期することについては、鳥の群体シミュレーション のように自身の周辺に合わせるだけで全体が同期していくようだ。
上記記事で紹介されていたこの動画が気持ちよかった。
季節とは
ホタルを見た谷戸では田んぼに水が張られていた。
これが夜になると一変してカエルの大合唱になっていた。田舎では当然の風物詩なのだろうが、こうして 5 月末にはカエルが鳴き、ホタルが光るという感覚が季節なんだなと思った。
昔、俳句の勉強のため季語をまとめた季寄せを渡されたときに、居並ぶ季語たちがまるで体感したことがなく現代生活とそぐわないなと感じた。その状態で句を作れと言われても無理ゲーすぎるだろうと憤りすら覚えたが、まあ、一体どうしたら良かったのだろうか。